2010年07月30日
最後の日

Aïra, mai 2010
これがもしかすると私の人生最後の一日。
私は太陽に敬礼した,右手を上げて,
でも私は敬礼して別れを告げたわけではないーー
ちがうのだ,むしろ私は太陽を拝めてうれしかったことをジェスチャーでしめしたのだ。
それだけのことだ。
フェルナンド・ペソーサ『羊の群の番人とアルベルト・カエイロの他の詩』
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2010年07月29日
夜の酒場で

Kyoto, février 2009
夜の酒場で
掘り割りの水面の水尺よりぐつと低い,水底の酒場。
真夜なかだ。誰もいゐない。
椅子とテーブル。――テーブルのうへに,象棋(しやうぎ)の駒だけが立つて,目をさましてゐる。
ながれ汚水。だが,どこかへうごいてゐないものはない。私はひとり,頬杖をついて,
今夜といふ時間の流れるのを,女の去つたあとのやうな,へんに冴え返つた頭できいてゐる。
壁紙の,高い画額のうしろにぽつかり窓があいて,
舟は,ひそかにスエズ運河を過ぎる。
金子光晴「夜の酒場で」in『金子光晴詩集』(『路傍の愛人』
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2010年07月28日
資本・金融・生

Aïra, mai 2010
最後に,「生政治」という概念に触れておきましょう。この概念は,九十年代,<帝国>の発展を描写するために用いられました。それによると,<帝国>が機能するには平和が必要であり,したがって,人道的な軍事介入主義は,剥き出しの生の政治,生自体の統治の裏返しなのです。ですが,これまで述べてきたところから考えると,この<生政治>の概念を適用するには困難があります。ともかくこの概念には,非常に曖昧なところがあり,まずそれを明らかにしなくてはなりません。
パオロ・ヴィルノが次のように書くとき,彼は完全に正しいでしょう。「生政治が現れるのは,人間存在の潜勢力の次元,すなわち話された言葉ではなく話す能力,現実に遂行された労働ではなく一般的な生産能力が,大きく表面化して直接的な経験となる場である」。生政治において労働力の生きた身体が統治/調整されるのは,それがただ「純粋な能力の基体」であるかぎり,資本が真に重要視する唯一のものの貯蔵庫,つまりさまざまな人間的能力を統合した労働力である限りです。「非物質的な(それ自体は顕在化していない)労働力が問題となるとき,生が政治の中心に置かれる。それゆえ,ただそれゆえに,生政治学を語ることが許されるのだ。国家の行政機関が注意を向ける生きた身体は,いまだに現実化されていない潜勢力の確かな徴表であり,いまだ客体化されていない労働,マルクスの美しい表現を借りれば,「主体性としての労働」のシミュラクルなのである」。
これは,グローバリゼーションとグローバルな<統治>の現段階を理解するために,決定的な定義といえるでしょう。生政治は,グローバルな資本主義的統治の特権ではありません。生政治はクリントン政権時にはたんに偽装されたかたちで存在していたにすぎませんが,ともかくも世界的規模の経済的<拡大>戦略の内にはつねに存在していました。それゆえ,マルチチュードの身体に配慮し,マルチチュードの身体がおのれのために生きることを可能にする政治,つまり<下からの政治>を展開する務めが,さまざまな抵抗運動に担われているのです。
クリスティアン・マラッツィ『資本と言語』(柱本元彦訳)
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2010年07月06日
夏(小川洋子)

Kuju, mai 2008
いつしか季節は夏になっていた。風の肌ざわりが変化し,眩しい光がそこら中で弾け,野原は緑の匂いにむせていた。林を横切る小動物たちは皆夏毛に生え変わり,農夫たちは干し草作りに精を出していた。時折,弱い雨が降ったり,山の稜線が靄で霞んだりする日はあったが,空を襲う熱気を押しやることはできなかった。何物にも損なわれない,本物の夏が訪れたのだった。
小川洋子『沈黙博物館』
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18:29
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