2010年02月11日
おふざけと官能

Lyon, mars 2009
モーツァルトのオペラは,少なくともうわべだけ見れば,おふざけと官能である。十九世紀以降の近代市民社会が「真面目」と見なすような主題は,『魔笛』を唯一の例外として,ほとんど現れない。極端に言えばモーツァルトが喜劇オペラで扱うのは,今日テレビで大量に垂れ流されているバラエティー番組と大差ないのだ。いわく「ナンパ術いろいろ(ドン・ジョヴァンニ)」,「彼女の浮気度チエック(コシ・〔ファン・トウッテ〕),「『もてない君』に彼女を作ってあげる(魔笛)」等々……。だがこうした他愛ないおふざけをいざ音楽で表現するとなると,「真面目な」話題の音楽化よりはるかに大きな,まさに想像を絶する困難が伴うということを忘れてはならない。押したり引いたりの「ナンパ」の駆け引きを,あるいは「嫌い嫌いも好きのうち」的な多義的な感情を,いったいどう音楽で表現するのか?神への祈りや恋する人を一途に思う気持ちや平和への呼びかけをアリアにするよりも,実はこちらの方がよほど難しいのである。音楽史上でこの離れ業をなしとげたのは,モーツァルトただ一人であった。
では「下世話な」話題をモーツァルトはいかにして音楽で表現したかと言えば,逆説的なことに,それは複雑きわまりない音楽技法によってであった。じらしたり,挑発したり,迷ったり,はねつけたり,謎めかしたりといった男女の間の微妙な感情の綾を,当時としては破格に凝った転調とオーケーストレーションと入り組んだフレーズ構造で表現するのである〔…〕。
岡田暁生『オペラの運命:十九世紀を魅了した「一夜の夢」』
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2010年02月05日
二度目の死

Moji, janvier 2010
放課後,私は階段に腰掛けていた。
階段の窓からは,雁が帰ってゆくのが見えた。(もしも,私が死ぬときは一人で死ぬのだろうか,それとも世界の滅亡と共に大部分の人類と死ぬのだろうか?一人で死ぬのも,人類が滅亡するのも私にとっては同じことであり,死はまさに相対的なものの考え方をゆるさない筈なのに,この二つを区別したいと思うのはなぜだろうか?)私は,たぶん二度死ぬのである。はじめの死は,私にとって「死を生きる」ことであり,世界との水平線をべつべつにすることに他ならないが,二度目の死は万物の終焉なのである。同級生の自殺や,アルコール中毒の父の死,草刈鎌で手首を切って死んだ古田完先生らの死がどことなく官能的でさえあるのは,「死を生きている」ものへの羨望を,生きのこっている私の心の中にとどめることが出来たからである。死んでから,二度目の死を待つまの猶予は死んでみたものでないとわからぬが,しかし何となく妖し気な幽界冥土のたのしみを想わせる。しんじつ「戦争」の中にひそむ二度目の死とのたわむれは,怖ろしい。「私は,一度目の死と二度目の死とのあいだは出来るだけ歴史が長い方がいいと思います」青森高等学校三年A組 寺山修司
寺山修司「誰か故郷を想はざる」in『寺山修司詩集』
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