2010年02月05日
二度目の死
Moji, janvier 2010
放課後,私は階段に腰掛けていた。
階段の窓からは,雁が帰ってゆくのが見えた。(もしも,私が死ぬときは一人で死ぬのだろうか,それとも世界の滅亡と共に大部分の人類と死ぬのだろうか?一人で死ぬのも,人類が滅亡するのも私にとっては同じことであり,死はまさに相対的なものの考え方をゆるさない筈なのに,この二つを区別したいと思うのはなぜだろうか?)私は,たぶん二度死ぬのである。はじめの死は,私にとって「死を生きる」ことであり,世界との水平線をべつべつにすることに他ならないが,二度目の死は万物の終焉なのである。同級生の自殺や,アルコール中毒の父の死,草刈鎌で手首を切って死んだ古田完先生らの死がどことなく官能的でさえあるのは,「死を生きている」ものへの羨望を,生きのこっている私の心の中にとどめることが出来たからである。死んでから,二度目の死を待つまの猶予は死んでみたものでないとわからぬが,しかし何となく妖し気な幽界冥土のたのしみを想わせる。しんじつ「戦争」の中にひそむ二度目の死とのたわむれは,怖ろしい。「私は,一度目の死と二度目の死とのあいだは出来るだけ歴史が長い方がいいと思います」青森高等学校三年A組 寺山修司
寺山修司「誰か故郷を想はざる」in『寺山修司詩集』
Posted by Nomade at 18:19│Comments(0)