2009年09月14日
スペクタクル
Lyon, mars 2009
十七世紀のスペクタクルは人の目をくらませる機能を持っている.人を惹きつけると同時に隠蔽するのだ。なぜ惹きつけられるのかと言えば,そこには君主という太陽に由来する光を積極的に取り入れようとする力がはたらいているからである。君主はみずからのイメージをふたつの舞台(セーヌ)に投影する。一つはヴェルサイユに徐々につくられてゆく舞台であり,もうひとつは臣民の無意識という舞台である。国王はこれらふたつの舞台に「自我の集団的理想形態」として登場し,臣民は,個人としてではなく,象徴的身体の構成員として,それと同化する。全員が一体となった彼らは,集団して,国家(ナシオン)として,そして後には社会階級として,国王なのである。いかなる個人といえども,ひとりでは国王の場所を望むことはできないし,自分を国王とみなすこともできない。といのは,国王とは個人ではなく,ひとつの集団が具現化した形態だったからである。ナポレオンは,アンシアン・レジーム期に君主が占めていた想像的な場所を個人の資格において手に入れようとしたわけだが,結局それに失敗した。それにたいして,十九世紀のブルジョワジーは,この置換に見事に成功するだろう。というのは,彼らは社会階級として,つまりひとつの全体を形成する集団として,フランス人の集団的想像力のなかの王の場所を奪取したからである。
ジャン=マリー・アポストリデス『機械としての王』/ 水林章訳
Posted by Nomade at 21:08│Comments(0)