2009年08月22日
学問はいったい何を語るべきなのであろうか
Arcahon, août 2005
〔…〕学問は,この不幸な時代にあって,運命的な転換にゆだねられている人間にとっての焦眉の問題を原理的に排除してしまうのだ。その問題というのは,この人間の生存全体に意味があるのか,それともないのかという問いである。この問いこそ,それがすべての人間に対してもつ普遍性と必然性とからみて,一般的に省察されるべきものであり,理性的な洞察からの答えを要求するものではあるまいか。この問いのかかわるのは,結局人間的および非人間的な環境に対して,自由な決定によって態度を決定する人間,自己ならびに自己の環境を理性的に形成するさまざまの可能性をもつ自由な人間になのである。理性と非理性とについて,またこの自由の主体としてのわれわれ人間について,学問はいったいなにを語るべきなのであろうか。
フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』/ 細谷恒夫・木田元訳
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