2009年05月21日
彼女がいるかぎり...
Kyoto, février 2009
薫さんはテラスに膝をつき,ドナの背中をなでた。彼は興奮してしっぽを振り,顔をなめ回した。彼女はくすぐったそうに目を細め,声を出した笑った。彼だけが安全地帯だった。彼に触れているかぎり,わたしたち三人の関係は保証されていた。
そのドナを殺そうとしたことを,薫さんは知っているだろうか。たぶん知っているだろう。彼女がいるかぎり,わたしは新田氏と二人だけの秘密を持つことができない。
彼に愛されている間,わたしの心を占めていたのは薫さんだった。彼らもまた,これと同じことをするのだろうかという思いから,どうしても逃れられなかった。吐息のすき間に,まぶたの裏に,音もなく彼女があらわれ,わたしと新田氏の姿を見ていた。新田氏の唾液が乳房を光らせたり,わたしの指が背中を這い回ったり,二人の髪が絡み合ったりするのを,まばたきもせずに見つめていた。その目には苦しみも失望もなく,むしろ精麗でさえあり,音の鳴っていないチェンバロを見上げるドナの瞳のようだ。
小川洋子『やさしい訴え』
Posted by Nomade at 22:57│Comments(0)