2009年05月14日
破壊されるチェンバロ
Roissy, mars 2008
「行かなかったんですね」
わたしは言った。新田氏は答えなかった。リビングのテーブルに新聞紙を広げ,鴨の羽根をカッターナイフで削っていた。そぎ落とされた黒い羽毛が,床に積もっていた。
「言うとおりにしてくれたんですね」
羽根の軸は白く,弓なりにカーブしていた。
「薫さんは? 一人で?」
彼らが札幌に発つはずだったその日,一人残った新田氏を見つけた瞬間,なぜかわたしは思い描いていたほどの喜びを感じることができなかった。むしろ戸惑いの方が大きかった。無理矢理彼を薫さんから引き離して,そのあとどうするつもりだったのか,自分でも混乱していた。だから何度も口に出して,願いがかなったことを自分に言い聞かせようとした。
「今日,もしあなたがここにいなかったら,って考えると,震えるほど怖かった」
なのに新田氏は黙り続けていた。カッターナイフはたやすく軸を削ることができた。それはみるみる精巧なチェンバロの爪に変形していった。
「わたしのため?」
弦に触れる先の部分は,更にどこまでも鋭く削られた。軸の破片が新聞紙の上に落ちてゆく音だけが聞こえた。
「それともドナのため?」
きのう欅の洞窟から別荘までを,上手に道案内したかわいいドナは,今わたしの部屋で眠っていた。ボロボロのタオルを両足にはさみ,段ボールの隅で丸くなっていた。
「ドナを殺されたくなかったから?」
答えるかわりに新田氏はわたしの腕をつかみ,階段へ引っ張っていった。床の羽毛が舞い上がった。そして二階の寝室で,鴨の羽根をむしるように,わたしを裸にした。
すべてが無言ですすんでいった。言葉のためのエネルギーも,肉体を支配するのに費やされた。
新田氏は決して怒ってはいなかった。むしろひたすらわたしを求めていた。なのに自分が,破壊されているかのような気分に陥った。彼の筋肉は震えるほど激しく動き,息をふさぎ,すぐに汗で濡れた。私は破壊されるチェンバロだった。
小川洋子『やさしい訴え』
Posted by Nomade at 22:23│Comments(0)