2009年05月08日
わたしのそばにいて
Bordeaux, septembre 2007
「わたしのそばにいてください。薫さんと一緒にはいかないで」
たやすいことだと,わたしは自分に言い聞かせた。理由も何も必要ない。単純でありふれた願いを口にしているだけだ。
新田氏は黙っていた。眼鏡のレンズに光が反射して,表情がうまく読みとれなかった。戸惑っているようでもあったし,ただ成り行きを見守っているだけのようでもあった。胸にはいつもの静けさが満ちていた。その不透明な影や,ゆるやかな流れがこちらにも伝わってきた。
「もし行くのなら...」
これ以上黙っているのに耐えられなくなって,わたしは言った。
「ドナを殺すわ」
声の一音一音が,彼の静けさに吸い取られていった。
小川洋子『やさしい訴え』
Posted by Nomade at 23:16│Comments(0)