2009年04月22日
すべてが彼を欲していた。ごまかしようがなかった。
Kokubu, mars 2009
「そこへ腰掛けて,鍵盤に指をのせれば,すぐに音が出てくるわ。この,あなたの指を...」
私は彼の左手を握った。本当の願いは,このままいつまでもこうしていることだった。なのに言葉では,わたしではなくチェンバロに触れてほしいと繰り返している。しかしそこにも矛盾などなかった。皮膚も血液も舌も鼓膜も,すべてが彼を欲していた。それはごまかしようながなかった。
私たちは唇を合わせた。再び毛布が床に落ちた。いすががたがた動いた。静かな口づけだった。互いのまぶたの裏に広がる暗闇を,そっと温め合うような口づけだった。
彼はわたしが望むとおりのことをしてくれた。凍りついた歓びを一つ一つ呼びさましてくれた。服を脱ぐ間も,毛布に横たわる時も,一瞬も私たちは身体を離さなかった。怯えているのかと思うほど優しく,彼の指は動いた。鍵盤にふれるかわりに,それはわたしの身体をなぞった。チェンバロがすべてを見ていた。
小川洋子『やさしい訴え』
Posted by Nomade at 22:49│Comments(0)