2009年04月16日
今のわたし
Kyoto, février 2009
「たとえどんなに優しくしてくれたとしても,それをありのままに受け入れることができなくなったの。食事の時,ちょっと離れたところにあるドレッシングを取ってくれるとか,髪の毛についたごみを払ってくれるとか,そんな小さな優しさでさえね。同じことをあの人にもしてあげてるに違いない。そう考えてしまうの。彼の指や胸や唇があの人のためだけに使われている場面を想像して,勝手に苦しんだわ。あなたはさっき妄想と言ったけれど,自分にこれほど鮮明な想像力があるなんて,思いもしなかった。息づかい,影,匂い,温度,何もかもがありありと浮かんできた。自分が経験したよりもなまめかしくね」
女は黙ってうつむいたままだった。
本当はそんなことはもうどうでもよかった。夫がもたらした苦しみなど,今のわたしには無意味だった。
小川洋子『やさしい訴え』
Posted by Nomade at 22:43│Comments(0)