2009年02月02日
家/母胎/玩具:祝!100エントリー
Kagoshima, janvier 2009
昭和一九年,私は,九州,福岡県門司港の,ある旅館の四人兄弟の次男として生まれ育った。
私は,その「藤乃屋」という屋号の旅館の歴史をくわしく知っているわけではない。その旅館を経営していた私の父は,明治二四年,四国の香川県の大きな旅館に生まれた。そして,一七歳で家を飛び出し,四国や広島を転々とした後,二三歳の時に朝鮮半島に渡り,さらに満州まで足をのばした。
満州で旅館を開業していたが,賭博〔とばく〕でそれをつぶし,私の生まれる八年前に,門司港にやってきた。そして藤乃屋旅館を開いたのである。
旅館はその時新築したものではなく,以前からあったものを父が買い取ったものだ。部屋数は三〇近くある,当時としては比較的大きな旅館だった。〔…〕三階建ての寄棟〔よせむね〕となっているこの建物は,階段だけで五つもある,複雑に入り組んだ構造を持っていた。
家という人間の入れ物は,環境としての土地柄と同じように。人の精神生理や,空間感覚を育成するものである。ある意味で。それは母親の母胎に似たものだと思う。その「藤乃屋」という母胎は,子供の私にとって,不思議に満ちた,奥行きの深い玩具であった。
入り組んだ古い建物の内部に,日々変化していく複雑な光と影。
どの方角からも抜け出すことのできる,迷路のような廊下と階段。
迷路を歩き巡るあでやなか容姿の仲居と料理。
建物のほうぼうで不意に出くわす見知らぬ人々。
客が泊まり,そして出ていったあとに部屋のなかに漂うさまざまな匂い。
季節の変わり目には家のほうぼうが生きもののようにきしみ,風の日には古びた窓や家の外皮が鳴り,そのような音は家の「声」として,子供の私の耳に記憶された。
昼には森のような静寂があり,夜には荒海のような喧噪があった。
藤原信也『東京漂流』
Posted by Nomade at 15:50│Comments(0)