2009年01月23日
嫉妬の芽生え
Paris, mars 2008
ベッドの中でわたしはなかなか寝つけなかった。目をつぶると,光に浮かび上がったチェンバロと薫さんの姿が,まぶたの裏に映った。そして肩から伝わってくる,新田氏の体温がよみがえった。
わたしは耳をすました。〔…〕駐車場に停めてあるという自動車に乗って,薫さんが下宿に帰ってゆく気配を,わずかでも感じ取りたいと願った。このままでは,眠りは訪れそうになかった。
実際はそんなもの聞こえるはずがない。ペンションは遠いし,もし仮に県道を走る車の音が聞こえたとしても,それが薫さんかどうか,どうやって確かめるというのだろう。
なのにわたしは耳をすまさないではいられない。本当は彼女は今晩,新田氏の元から離れていっただろうか。
しかし聞こえてくるのは,チェンバロの音ばかりだった。
小川洋子『やさしい訴え』
Posted by Nomade at 14:34│Comments(0)