2009年01月19日

恋に落ちる瞬間

恋に落ちる瞬間


Paris, mars 2008

「新田さんは,お弾きにならないんですか」
 彼は髪の間に指を滑り込ませ,二,三度まばたきした。
「新田さんが弾くチェンバロも,聞いてみたいわ」
聞こえなかったのかと思い,わたしはもう一度繰り返した。けれど彼は黙ったまま,ゆっくり首を横に振るだけだった。
 二人とももう口を開かなかった。ただじっと,身体を固くしているだけだった。新田氏の肩が,すぐそばにあった。そこに触れたいという気持ちが不意にわき起こり,わたしを混乱させた。チェンバロのせいだと,自分に言い聞かせた。この音色が,ひととき感情を揺さぶっているだけだと。

小川洋子『やさしい訴え』


タグ :小川洋子


Posted by Nomade at 12:35│Comments(0)
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